図 121探検館

兵馬俑とは何か:始皇帝の軍団と三つの坑を歩いて知る

兵馬俑の1号坑は長さ230 m。兵士と馬の像は推定約6,000体に上り、もとはすべて彩色されていました。

兵馬俑とは何か:始皇帝の軍団と三つの坑を歩いて知る
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1 / 13 前列1号坑の東端です。目の前では衣をまとった前衛の兵士が68人ずつ3列に並び、東を向いています。その後ろの通路は西へ230 m延び、馬を含め約6,000体の像があったと推定されています。展示館の照明が区画ごとに点灯します。

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この展示で歩く場所

兵馬俑とは、中国の始皇帝の陵墓に伴う、陶製の兵士や馬の軍団です。3つの坑に並ぶ像は、もとは彩色され、木の柄に本物の青銅の武器を取り付けていました。長い溝に灰色の兵士が並び、上方の正面から奥を見通す写真で知られていますが、それだけでは全体は分かりません。像は木材と土の屋根の下、暗闇に立っていました。その屋根が焼けて崩れたため、大半が砕けた状態で見つかりました。また、兵馬俑は、今も開かれていない始皇帝の墓を囲む、はるかに大きな陵墓群の一部にすぎません。

この模型では、現在の3つの坑を歩き、年代スライダーで歴史をさかのぼれます。一方の端は、紀元前210年ごろ、彩色されたすべての像が立ち、坑が閉じられたばかりの時代です。その後、火災、畑の下での2000年間、1974年に農民が掘った井戸、1979年の博物館開館を経て、現在の姿になります。復元された1号坑の前列、その後ろで続く発掘、2号坑の弩兵と騎兵、3号坑の小さな指揮所、2台の青銅の馬車を置く展示館、そして西へ1.5 kmの墓の墳丘を見られます。

本文では、模型に表したもの、数値の出典、未解決の問題を説明します。模型の像は実物と同じく、別々の部品から組み立て、個別に仕上げています。顔の表現は簡略にとどめています。兵士を見分ける手掛かりは、鎧、髪、冠、立ち方です。模型はその細部を表しています。

最初の10秒

展示は、現在1号坑を覆う展示館の東端にある見学台から始まります。照明は消えています。手前から奥へ区画ごとに明かりがつき、暗闇から軍団が現れます。まず足元の前衛3列、その後ろには通路に沿って長い隊列が延び、230 m先の壁へ続きます。

1号坑だけで、人物像と馬は約6,000体と推定されています。これは実際に数えた数ではありません。発掘済みの部分の像の密度を、坑全体の面積に当てはめた値です。模型もこれに相当する数を配置しており、年代を紀元前210年に戻すと、閉じられた当時を想定した、像で埋まる坑が見られます。現在の景色で完全な姿で立つのは復元された東端だけです。中央は発掘現場、西側はまだ地中にあります。

坑の位置

坑は陝西省西安の東、臨潼にあり、始皇帝の墓を覆う墳丘の約1.5 km東に位置します。墓と坑をつなぐ壁や道は残っていません。現在は陵墓を囲む約200の陪葬坑の一部と考えられています。UNESCO は陵墓群を、56.25 km²の範囲に600を超える遺跡がある資産と説明しています。

軍団を構成するのは3つの坑です。最大の1号坑は東西に長い長方形です。2号坑は1号坑の東端から北へ20 m、最小の3号坑は西端から北へ25 mの場所にあります。3号坑の東側から2号坑までは120 mです。模型では、現地博物館が示すこの距離に従って配置しています。

1号坑の大きさ

博物館によれば、1号坑は東西230 m、南北62 m、現在の地表から深さ4.5から6.5 m、面積14,260 m²です。サッカー場を縦に2面つなげた長さを超えます。模型の中で歩く速さでは、像の前列から奥の壁まで、坑の長さ全体を歩き通すのに約1分半かかります。

坑を掘ること自体が大工事でした。ある研究の計算では、1号坑だけで7万 m³を超える土を取り除く必要がありました。像を1体も作る前に、何千人もの労働者が、長い家並みを埋められるほどの土を動かしていたのです。

坑の造り方

坑は地下の建物です。大きな穴を掘り、その中に東西方向の長い版築壁を築いて、通路に区切りました。版築とは、板の間に湿った土を入れ、薄い層ごとに突き固める工法です。今も壁に層が見え、模型の壁にも表しています。

壁沿いに木の柱が立ち、梁を支えていました。さらに壁から壁へ、通路を横切るように木材を渡し、その上にむしろと厚い土の層を重ねました。通路の床には灰色の煉瓦を敷き、一部には「Gong shui」「Zuo sikong」などの刻印があります。陵墓の屋根瓦にも同様の印があり、製作した工房を示しています。坑の端には傾斜した入口があり、2号坑は3方向に11か所の出入口があります。

模型では、床から屋根の木材までの内高を3.2 mとし、1号坑を幅広い通路9本と両脇の狭い通路に分け、10本の壁を設けています。これらは模型の設定値です。配置は発掘図に基づきますが、幅や高さの細かな値は実測図から取ったものではなく、公表された坑全体の寸法に合うよう決めました。「壁の上」では、発掘担当者のように壁上を歩き、通路を見下ろせます。

紀元前210年、屋根を閉じた通路は真っ暗でした。「屋根(紀元前210年)」を有効にすると模型の屋根が閉じ、たいまつを持って歩きます。その年代の初期設定では屋根を外しており、当時は誰も見られなかった軍団全体の姿を、上から見渡せます。

1号坑の陣形

1号坑の軍団は東を向いています。東端の前方に68人ずつ3列、計204人の前衛が並びます。衣と脚絆を着け、鎧はありません。その後ろの通路が主力です。鎧を着けた歩兵が4人横並びになり、その間に戦車と馬が配置されています。両脇には外を向く1列ずつの側衛があり、西端には後衛が並びます。模型では、その最後列は西を向いています。

像とともに見つかった武器も、この配置に合っています。弩の引き金や矢の束は主に前衛と両脇の通路から出土しました。敵が近づく前に遠くから射つ弩兵が立つ場所です。中央の通路でも、戦車の後ろに少数の専門の弩兵がいました。戟や長槍などの長柄武器は、主力の歩兵に対応します。

「部隊の色分け」を押すと、前衛は橙、側衛は黄、後衛は紫、主力は青になります。色は模型独自のものです。配置は公表された部隊の説明に従い、未発掘の部分には同じ規則を延長しています。

階級と役割を見分ける

見る場所が分かると、像から階級や役割を読み取れます。主力の一般的な歩兵は、ひざまでの衣の上に、小さな札を鋲でつないだ鎧を着け、その下に脚の防具があります。前衛は衣と脚絆だけで、鎧はありません。多くの兵士は頭頂の右側で髪を髷に結び、平たく編んだ髪の兵士もいます。

御者は肩当てのない長い鎧を着け、手綱を持つため両腕を前へ出しています。その左右の戦車兵は、片手に長柄武器を持ち、もう一方の手で体を支えます。騎兵は鞍を着けた馬の横に立ちます。博物館によれば、騎兵は秦軍の新しい兵種で、兵士は慎重に選ばれたようです。

軍吏の像は最も背が高く作られています。博物館所蔵の1号坑の中級軍吏2体は高さ189 cmと191 cmで、2枚の板から成る長い冠を着けています。一方は弓と剣を持ち、他方は長柄武器を持つため腕を上げています。現在までに見つかった最高位の高級軍吏は、しばしば「将軍」と呼ばれます。二重の衣、彩色した小札の鎧、冠を着け、長剣の柄の上で両手を重ねています。模型では、軍吏は前線の戦車のそばと、3号坑の指揮所に立っています。

戦車と馬

戦車は木製で、朽ちた後に土の中に形を残しました。発掘された1号坑の前部では、兵士の間から8台が見つかり、それぞれ4頭の馬が引いていました。馬は実物大の陶製で、兵士と同様に別々の部品を組み合わせ、焼いて作りました。

戦車の乗員は3人です。中央の御者が手綱を持ち、その両側に兵士が1人ずつ立ちます。博物館所蔵の2号坑の御者は高さ192 cmです。模型では紀元前210年に戦車が現れ、後の年代では木材が朽ちた状態を表すため消え、馬と乗員だけが残ります。

1号坑は未発掘部分が大きく、戦車の正確な数は不明です。模型では4本の通路に各5台、計20台を置いています。これは模型の設定値です。

2号坑:各兵種が集まる坑

2号坑は1976年4月、1号坑東端の北20 mで見つかりました。北東の角が張り出したL字形で、東西124 m、南北98 m、深さ約5 m、面積約6,000 m²です。博物館は人物像と馬を1300体以上と推定し、見学案内では人物像939体、馬472頭、戦車89台という内訳を示しています。

2号坑は4つの部隊から成ります。北東の角は弩兵部隊で、ひざまずく弩兵と立つ弩兵が300人以上います。北側の通路3本には、戦車6台と、それぞれ鞍付きの馬を伴う騎兵108人がいます。その南の通路3本には戦車、歩兵、騎兵が混在し、南側の通路8本には4頭立ての戦車部隊があります。

模型は弩兵を中央の跪射俑160体と、その周囲の立射俑172体に分けています。混成部隊の内訳も調整し、坑全体が博物館の総数939、472、89に合うようにしています。この細かな内訳は模型の設定値です。博物館が示すのは総数と、弩兵が「300人以上」という点までです。

2号坑の跪射俑は、多くの見学者の印象に残る像です。高さ128 cmで、右ひざをつき、左ひざを立て、体の右側で弩を握るように両手を構えています。頭頂の右側で髪を髷に結んでいます。右ひざを地面につくため、右の靴底は後ろを向き、その模様まで細かく作られています。博物館は、跪射俑が多くの像より丁寧に仕上げられ、一部には彩色がよく残ったことを指摘しています。模型の展示館にも1体あります。

2号坑の大半は未発掘です。焼けた屋根の残骸が今も坑の多くを覆い、考古学者はそこに試掘溝を開けています。模型では弩兵と騎兵の一部を露出させ、残りを炭化した屋根の下に置いています。「地中に残る像」を有効にすると、隠れた像が薄い輪郭で現れます。

3号坑:指揮所だったのか

3号坑は2号坑の発見から1か月後の1976年5月、1号坑西端の北25 mで見つかりました。小さなU字形で、28.8 m × 24.57 m、深さ5.2から5.4 m、面積520 m²です。東側に傾斜した入口があります。人物像68体と馬4頭の計72点があり、戦車の部屋には4頭立ての戦車1台と4人がいます。残る兵士は左右の部屋の壁沿いに立っています。

3号坑を、他の2つの坑の軍団を統率する司令部と見る研究者もいます。博物館は慎重に、古代文献で「軍幕」と呼ばれる指揮所だったと考える学者がいる、と説明しています。出土品には、青銅の先端金具を付けた棒状の武器である殳や、長さ17.5 cmの青銅の槍先があります。

3号坑は、3つの中で唯一火災に遭わなかった坑でもあります。そのため像の彩色が多く残り、色も鮮やかです。模型の現在の景色では、3号坑の像に薄い色の痕跡を残しています。紀元前210年に屋根を閉じるなら、最も小さく暗い、この坑で確かめられます。

像は何体あるのか

広く伝わる数は8000体です。これは実数を数えた結果ではなく推定で、資料によって総数が異なります。現地博物館の収蔵品ページでは、3つの坑の陶製の人物像と馬を8000体近くとしています。2017年の粘土の研究は人物像約7000体、2014年の武器の研究は発掘済み部分の密度から兵士像約7000体と推定しています。

実際に発掘された数は、それより少なくなります。2019年の武器の研究によれば、2000体を超える兵士像が発掘され、さらに数千体が地中に残ると推定されています。博物館が示す1号坑の人物像と馬、約6,000体は、試掘溝の密度から計算したものです。2号坑の1300体以上も試掘に基づきます。

模型では1号坑に人物像と馬を5860体、2号坑に1411体、3号坑に72体、合計7343体配置しています。2号坑と3号坑は博物館の数に正確に合わせ、1号坑は推定6,000体に近づけています。左下のカウンターは、選んだ年代で立っている像、砕けて倒れた像、地中の像を示します。後の2つの数は、発掘範囲の公表資料に基づく模型上の推定で、実測調査の値ではありません。

兵士像の作り方

立つ兵士像は高さ約1.8から2 mです。中空で、壁の厚さは最大約0.1 mあります。脚、胴、手、頭を別々の部品として作り、その多くは少数の型で成形しました。それらを組み立てた後、各像を個別に見せる細部を加えています。脚は、遺跡の排水管と同じように、粘土の板から作った可能性があります。

像の薄片を顕微鏡で調べた研究から、粘土の性質が分かります。地元の黄土質の粘土で、きめが細かく雲母に富み、砂を加えていました。砂を混ぜると成形しやすく、焼いた後も丈夫になります。同じ基本の粘土を異なる方法で調整し、百戯俑や、青銅の水鳥の内部の中子にも使っていました。粘土を1か所で準備して各工房へ配ったことを示唆します。

模型の修復作業台には、部品に分かれた兵士像が横たわっています。「兵士像の組み立て」を0から100 %へ動かすと、台座、脚、衣、鎧、腕、頭の順に部品が集まります。この順序は模型での簡略化です。重要なのは、像が部品を接合してから仕上げる構造だという点です。

顔が異なる理由

UNESCO は像がすべて異なると説明し、各顔が実在の兵士の肖像だという話もよく聞かれます。しかし証拠が示すのは、もっと実際的な製作方法です。頭部は少数の型で作られました。2014年の武器の研究が引用する一説では、頭部の型はわずか8種類です。成形後に口ひげ、眉、あごひげ、髪型、冠を加えたり彫ったりして、個別の顔に仕上げました。同じ研究は、量産の痕跡を隠すため、こうした部分を1体ずつ仕上げたと明記しています。

一部の顔が肖像かどうかは、今も議論があります。調べる方法の1つは、人による違いが大きく、偶然には同じ形になりにくい特徴を比較することです。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンと現地博物館のチームは、兵士像30体の耳の3D モデルを作り、形を比べました。厳密に同じ耳はありませんでした。職人の癖、写実性への意図、実在の人物をモデルにした可能性など、複数の説明と両立する結果です。研究は、そのどれかを確定していません。

「顔」の実験では、この方法を試せます。8種類の型から1つを選び、口ひげと髪型を選ぶと、作業台に仕上げた頭部が現れます。異なる3通りを作ると課題が完了し、全128通りのうち何通り作ったかを数えます。模型の8種類の型の形状は設定値で、実際の型の再現ではなく、方法を示すものです。

像に残る名前

多くの像には、粘土に押したり引っかいたりした名前があり、背中に見られることも多くあります。研究者は、その印や署名から少なくとも87人の工房責任者を確認しています。それぞれが名を記した像の品質に責任を負い、おそらく作業班を監督していました。陵墓の屋根瓦にも同種の印があり、製作した工房を示します。

こうした印は仕事の組織を示します。国家は不具合の原因をたどれるよう、誰が何を作ったかを把握しようとしていました。模型の修復作業台には、背中に名のある兵士像が、発見項目の1つとしてあります。

何度で焼いたのか

古い本では焼成温度を900から1,050 °Cとしています。2017年の薄片研究は、粘土中の鉱物からこれを検討しました。大半の試料には、粘土を約850 °C以上で保持すると消える粘土鉱物の光学的性質が残っています。また、多くの試料の角閃石が緑色を保っており、約750 °C未満を示唆します。著者らは、像は単に乾かしたのではなく焼かれているものの、よく言われるより穏やかな条件で焼成されたと結論しています。

推定値が大きく異なる理由も示しています。坑の火災で一部の像が再び加熱されれば、より高温で焼いたように見えます。これは未解決の問題です。展示も未確定として扱い、焼成を扱う「通説と証拠」のカードで両方の見方を示します。

焼成場所も不明です。高さ1.8から2 mの像が入る大きさの窯は陵墓近くで見つかっていますが、中には煉瓦や瓦の破片がありました。大型で壁の厚い像を大量に、失敗を抑えて焼くには、窯内の温度と空気を十分に管理し、粘土の水分を抜くためゆっくり昇温する必要がありました。

もとは彩色されていた

現在見る像は灰色ですが、もとは彩色されていました。顔料の下地は、ウルシの樹液が固まった東アジアの漆で、その上に色を塗っています。例えばK0006坑の文官俑には、出土時に赤、緑、黒、桃、白の痕跡が、主に顔に残っていました。

色はゆっくり薄れたのではありません。多くは数分で失われました。湿った土の中で2200年以上を経た漆は変質していました。発掘した像が乾くと、漆の層が縮んで粘土から反り返り、顔料ごと剥がれます。この問題に取り組んだ化学者は、像が乾いてから数分で彩色が剥がれると記しています。何十年もの間、埋葬中に残った色の大半が、発掘後の最初の1時間で失われていました。

2003年に発表された対策は、新しい出土品を元の土と同程度に湿らせたまま保ち、漆が乾く前に、ある物質を含浸させてその場で硬化させ、定着させる方法です。現地の保存担当者は研究を続けており、1号坑から新たに出土した彩色像の保存処理を記した論文もあります。

「彩色」の実験では両方を確かめられます。スライダーを動かすと舞台の全像に色が付きます。色は当時の顔料らしく選んだ説明用のもので、特定の像を実測した色ではありません。次に、彩色の残る跪射俑のケースで「乾燥させる」を押すと、顔料が薄片となって剥がれます。

本物の武器

兵士は実用の武器を持ち、そのほぼすべてが銅と錫の合金である青銅製でした。槍や戟の柄、弩本体、鞘などの木や竹の部分は朽ちましたが、金属は多くの場合、非常によい状態で残りました。1号坑の部分的な発掘だけで、数十点の槍、長槍、剣、鉤、柄の末端の石突80点以上、弩の引き金260点以上、鏃約4万点が得られています。

歴史家に新しい知見をもたらした武器もあります。鈹がその1つです。短剣に似ており、兵馬俑の発見前には完全な出土例も明確な記述もなかったため、短剣と考えられていました。坑の出土品から、槍先より長く鋭い、長柄の刺突武器の穂先だと分かりました。戟は1本の柄に戈の刃と槍先を組み合わせ、引っ掛けることも突くこともできます。剣は細長く、刃と茎を一体に鋳造しています。

模型の紀元前210年の歩兵は、青銅の穂先を付けた長い柄を持っています。後の年代では、木材が朽ちたように消えます。展示館の武器ケースには、剣、戈、鈹、槍先、弩の引き金、100本の矢の束があります。

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四万本の矢

出土品の中で、鏃は他を大きく上回る数があります。各矢の先端は、長さ約2.7 cmの中実の三角錐状の青銅で、青銅の茎に付いていました。茎に紐を巻いて、竹や木の矢柄に差し込みます。茎を含む鏃は約15 g、矢全体は長さ約60 cmで、末端に羽が付いていました。

鏃は束で見つかりました。編んだ麻の矢筒が朽ちた後も、中の矢がまとまって残ったのです。最も多い束はちょうど100本で、弩兵1人の矢筒1つ分です。1号坑の最も東側の5本の試掘溝だけで、680か所から37,348本の矢が出土しました。大半は前衛と側面の通路にありました。

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンと現地博物館のチームは約1600点の鏃を測定し、その多くを携帯型X線装置で金属分析しました。鏃は、ノギスでなければ違いを区別できないほど似ています。しかし化学組成は束ごとに異なり、1つの束の中では同じでした。各束は同じ金属の製造単位に由来します。つまり、異なる製造単位が混ざる長い生産ラインではなく、小さな多能工房が、矢筒1つ分を鋳造し、仕上げ、束ねてから次へ進んだのです。研究者はこれをセル生産と呼び、生産ラインより柔軟だったと論じています。余剰在庫を抱えず、計画の変化に応じて班を別の仕事へ移せたからです。

弩の引き金

弩の引き金は小さな機械です。3つの部品を2本の軸で留めています。引き金そのものである握り、弦を保持して照準用の突起を備える部品、両者をつなぐ揺動する梃子です。組み合わせると、ばねなしで引いた弦を保持し、解放できます。各部品を型で鋳造し、合うようにやすりで調整して組み立てました。

1号坑東端の約216点の引き金が、調査、計測、位置図化されました。多くは前の通路と両脇の通路の弩兵のそばにありました。同じ引き金の部品には、やすりがけ後に対応する記号を加えており、組み合わせを確認したことが分かります。1号坑の箱形部品を伴う引き金1点は、おそらく秦滅亡後の漢代です。なぜ坑内にあったかは未解明で、模型の発見項目の1つです。

クロムをめぐる通説

約40年間、秦の武器職人が一種のクロムめっきを発明したという話が広まりました。坑の武器の一部には表面にクロムがあり、保存状態のよさも有名でした。その2点を結び付け、秦が防錆のため青銅をクロム処理したという説が、発掘報告、博物館の解説、一般向けの本で繰り返されました。

2019年、Marcos Martinón-Torres を中心とするチームが、Scientific Reports に大規模な研究を発表しました。武器の部品464点を調べ、37点、8 %の表面にクロムを検出しました。分布は明確です。剣と長槍の金具では88 %、引き金の握りと弦を保持する部品では75 %、石突では67 %でした。一方、引き金の梃子と軸は13から17 %、鏃は1.5 %、鏃の茎は0.5 %で、刃からは検出されませんでした。クロムがあるのは柄、鞘、弩の台、柄棒など、漆を塗った木材に接していた部品です。遺跡の漆を分析すると、クロムを多く含んでいました。青銅のクロムは処理の痕跡ではなく、埋葬後に漆から移ったものです。チームは青銅にクロムを塗って経年変化を再現する実験も行いましたが、従来の説を支持する結果にはなりませんでした。

「クロム」の実験では、各種の部品を押して検出率を確認できます。慎重な測定で、広く知られた話が改められた例です。

青銅がよく残った理由

クロムでなければ、何が青銅を守ったのでしょうか。同じ研究は、主因を土壌と考えています。武器を囲む埋葬土は弱アルカリ性で粒子が非常に細かく、腐食を遅らせます。青銅の組成も役立ちます。錫が多い青銅には、錫に富む安定した表面層ができやすいからです。多くの刃には今も鋭い刃先と光沢があり、研磨や刃付けの平行な線もはっきり見えます。

年代が分かる武器

一部の長柄武器には、製造時の治世年、責任を負う官吏、工房、職人を示す長い銘文が、青銅に刻まれています。年代のある戟と戈は紀元前244年から237年、長槍は紀元前232年から228年の製作です。いずれも、秦王が紀元前221年に始皇帝となる前です。

ここには研究者が率直に論じる疑問があります。小工房が並行して武器を作ったなら、武器の種類ごとの年代は重なるはずですが、そうなっていません。1つの説明は、数が少なく高位の兵士が持つこれらの武器は、専門工房から来たというものです。別の説明は、坑の軍団用に作ったのではなく、通常の軍需工房の在庫から取ったというものです。

火災と屋根の崩落

1号坑と2号坑は焼けました。柱と梁が焼け落ちると、屋根とその上の厚い土が通路へ崩れ、下の像を押しつぶしました。そのため、これらの坑ではほぼすべての像が砕けて見つかり、修復担当者は1体の接合に何か月も費やします。3号坑は焼けず、彩色も多く残りました。

誰が火を放ったかの記録はありません。一般的には秦王朝の滅亡に結び付け、反乱軍の将軍、項羽の名が挙げられます。しかし、坑が焼かれたことや放火者を記す文献は残っていません。2017年の粘土の研究も、項羽による「破壊とされるもの」と表現しています。この展示では火災を確実な事実、犯人を推測として扱います。

年代スライダーを「火災」にすると、屋根の梁が赤く熱せられてたわみ、火の粉が上がり、数秒後に屋根が崩れ、大半の像が倒れます。「屋根の崩落を見る」の課題は、屋根が落ちると完了します。

畑の下の2000年間

火災後、坑は土で埋まりました。その上で農民が2000年間、土地を耕しました。地表には地下の軍団を示すものがなく、それを記す文献も残っていません。始皇帝の死から約1世紀後に陵墓を記した歴史家、司馬遷も、墓と労働者には触れましたが、1.5 km先の陶製の軍団には触れていません。

模型の「畑」の年代では、坑を農地が覆います。「地中に残る像」を有効にすると、地面の下の軍団が薄い輪郭で見えます。

1974年の井戸

干ばつに見舞われた1974年3月、臨潼の西楊村の農民が井戸を掘り、陶製の像の破片に突き当たりました。考古学者が1年以上にわたり調査と試掘を行い、井戸が巨大な1号坑の中に掘られていたことが分かりました。1976年には近くで2号坑と3号坑が見つかりました。

1975年8月、国務院は現地に博物館を建てると決定しました。1号坑を覆う展示館は1979年に完成し、同年10月1日に博物館が一般公開されました。3号坑の展示館は1989年9月27日、2号坑は1994年10月1日に開館しました。1987年12月11日には、坑を含む秦始皇帝陵が世界遺産に登録されました。

模型の1974年には、1号坑の南東の角近くに井戸が現れ、その周りに数人の農民がいます。井戸の位置は模型の設定値です。博物館が示すのは、後に1号坑と分かった場所にあったという点までです。

現在の発掘

発掘は今も続いています。模型の現在の景色では、1号坑東端が復元され、中央の帯状の範囲で発掘が進み、西側は地中にあります。「坑の床」で発掘現場に下りると、破片の間を歩き、通路の上の糸の格子を見て、修復作業台に立てます。そこには部品に分かれた兵士像と、棚に並ぶ8つの頭部があります。

多くの像は多数の破片として出土します。彩色の研究をした化学者によると、一般的な破片は幅約15 cm、厚さ2から3 cmです。1点ずつ記録、洗浄し、彩色があれば処理して、隣接する破片とつなぎます。博物館は毎年、修復技術の試験を行い、2026年には36人が参加しました。

青銅の馬車

1980年12月、考古学者が墳丘の西20 m、地下7.8 mから、青銅の馬車2台を掘り出しました。木の部屋の中に前後に並べて置かれていました。木材が朽ち、上の土が崩れて馬車を押しつぶしていましたが、盗掘されておらず、ほぼすべての部品が残っていました。

皇帝の行列の馬車を、実物の半分の大きさで写したものです。それぞれ1本の轅、2輪、4頭の馬を備えます。1号車は立ち乗りで、立つ御者は高さ91 cm、重さ70.6 kgです。2号車は覆いのある馬車で、御者の前室と後室に分かれます。前に座る御者は高さ51 cm、重さ51.92 kgです。2号車だけで部品数3,462点、長さ317 cm、重さ1,241 kgあります。2台の金銀の装飾は14 kgで、馬の金の額飾りの裏には「十二」と記されたものがあります。全体に赤、緑、紫、青で雲、竜、幾何学模様を描いていました。そのため模型の馬車は青銅色ではなく、淡い色にしています。

博物館は馬具も詳しく説明しています。中央の2頭が轅を引き、外側の2頭が補助します。横木が外側の馬の内向きを抑え、首から軛へつなぐ帯が外向きを抑えて、4頭が一緒に引けるようにしています。模型では馬車を展示館に置き、墳丘の西の出土地点には標識を立てています。

その他の坑

兵馬俑は陪葬坑の1群にすぎません。他の坑は宮廷や帝国の別の側面を表し、独自の展示館を持つものもあります。1999年に墳丘南東で見つかったK9901坑には、上半身を露出して短い裳を着けた、実物大の芸人像が20体以上ありました。他の像とは異なる姿勢で、1体の右腕には文字が刻まれています。同じ坑からは重さ212 kgの青銅の鼎も出土しました。

2000年に墳丘南西で見つかったK0006坑には、袖の中で手を組んで立つ文官8体と御者4体、計12体があり、奥の部屋には馬の骨がありました。火災に遭わず、木造部分もよく残りました。K9801坑には、石灰岩を削って穴を開け、青銅線でつないだ鎧と兜がありました。ある鎧は612枚、兜は72枚の板から成り、より精巧な鎧には約800枚あります。K0007坑には、宮廷の庭園を表す青銅のツル、ハクチョウ、ガンがありました。高さ77.5 cmのツル1体は、小さな虫をくわえて水辺へかがんでいます。小さな厩の坑には、高さ64 cmのひざまずく馬丁がいました。

模型では、これらを展示館のケースに置き、墳丘近くの坑には標識を立てています。案内にはすべてを載せています。

墳丘

始皇帝の墓は、驪山北麓の土の墳丘の下にあります。UNESCO による現在の高さは51.3 mです。博物館の英語ページには、当初115 m、現在70 m超という別の数値があります。2014年の武器の研究が引用する学術的復元では、当初は80 mを超えるピラミッド形だったとします。差は測定の基準点と、2000年間の浸食の双方に関係します。模型は UNESCO の51.3 mを使い、底面を350 m × 345 mとしています。底面は模型の設定値です。

墳丘は二重の城壁に囲まれています。UNESCO は、壁の内側に壁を設ける配置が都の咸陽を思わせ、亡き皇帝を守る軍団は墓の外側を向くと説明しています。墓室は地下30から40 mにあると考えられています。そこまで掘った人はいません。中央の墓は未発掘です。

水銀

皇帝の死から約1世紀後に書いた司馬遷は、墓内を縮小された世界として描き、水銀の川や海を流したと記しています。長く伝説と見られていましたが、測定結果により簡単には退けられなくなりました。

1980年代初め、墳丘の土壌調査で、中央部に強く明瞭な水銀異常が見つかりました。最大1,440 ppb、平均205で、周辺の背景値を大幅に超えていました。後の研究では最大2,204、平均169でした。2020年には、チームが墳丘の周囲3地点からレーザーレーダー(ライダー)で上空の水銀を測定しました。周辺の5から10に対し、墳丘上空は最大27 ng/m³でした。値の高い地点は、土壌の水銀濃度が特に高い場所と一致しました。不確実性は非常に大きいものの、数世紀の間に1トン程度の水銀が大気へ失われた可能性を推定しています。著者らは、結果が司馬遷の記述の信憑性を高め、墓は開かれたことも盗掘されたこともないと考えられる、と記しています。

「水銀」の実験と「水銀の測定値」の切り替えでは、墳丘上の2つの高濃度地点、周囲3地点からのレーザー、地下の墓室を示す線だけの箱を表示します。高濃度地点の位置と墓室の輪郭は模型の設定値です。墓室の形は誰も知りません。

誰が造ったのか

史料によれば、若い秦王の即位とともに墓の工事が始まり、死去まで40年近く続き、70万人が働きました。陶片の銘文には、帝国各地から徴発された労働者の名前や出身地が残っています。強制労働の囚人もおり、多くは陵墓近くの墓地に葬られました。

像の印、矢の束、規格化された引き金から、組織的な仕組みが見えてきます。多くの小さな班が、共通の見本、規格、型を使い、品質を確認できるよう名前を付けて働いていました。兵馬俑は、各品を誰が作ったかを把握しようとする国家のもとで、何千人もの人が作ったものです。

模型と実際の違い

この模型は歩くための復元で、測量成果ではありません。簡略化や推定を含みます。

  • 通路の幅、壁の高さ、内高3.2 m、1号坑の通路数は模型の設定値です。3号坑の部屋の形や2号坑の通路配置も同様です。
  • 像の配置は部隊の説明に従い、未発掘部分にも同じ規則を延長しています。数は2号坑と3号坑では博物館の値に合わせ、1号坑では約6,000体という推定に合わせています。
  • 像は少数の種類を基に、それぞれ複数の頭部の型、髪型、口ひげを組み合わせています。実物の違いはもっと多様です。
  • 彩色は説明用です。顔料には違いがあり、特定の像の測色値を再現していません。
  • 現在の1号坑の復元、発掘、埋没の区分、1974年の井戸の位置、水銀の高濃度地点、墓室の輪郭は模型の設定値です。
  • 展示館も簡略化しています。1号坑のアーチ形の建物、見学台、出土品の展示館は、実物の設計図ではなく形を表しています。
  • 墳丘は実際の距離に合わせて西へ1.5 kmに置き、その間の畑は平らにしています。

移動方法

ドラッグで周囲を見渡します。WASD または矢印キーで歩き、Shift を押しながらだと速く歩けます。地面をクリックまたはタップすると、そこへ移動します。スマートフォンでは左下の円がジョイスティックです。「地上」「壁の上」「坑の床」で高さを変えられ、一部の階段やはしごも近づくと高さが変わります。「速歩き」と「上から」は速度や視点の高さを変えます。左上の地図は現在地を示し、クリックで移動できます。「墳丘 1.5 km」の矢印から墓へ移動することもできます。

見学コース、課題、発見

パネルの見学コースは、前列から墳丘まで13の景色を案内します。「課題」には15問あり、見て答えるものと、兵士像の組み立てや水銀測定のように操作するものがあります。「発見」は見落としやすい22点で、近くに立って見るとカードが開きます。「通説と証拠」には、広く信じられる話と証拠を照らし合わせる9枚のカードがあります。案内には126項目を出典付きで載せ、模型にあるものへ移動できます。

よくある質問

兵馬俑は何体ありますか?

正確には分かりません。博物館は1号坑の人物像と馬を約6,000体、2号坑を1300体以上と推定し、3号坑には72点ありました。全坑の総数は資料により約7000体、または8000体近くとされます。これまでに2000体を超える兵士像が発掘されています。

誰が兵馬俑を発見しましたか?

1974年3月、干ばつの中で井戸を掘っていた、臨潼の西楊村の農民です。その後、考古学者が1年以上調査して1号坑を確認しました。2号坑と3号坑は1976年に見つかりました。

兵士像には色がありましたか?

はい。漆を下地に、複数の色で彩色していました。発掘後、漆が乾いて粘土から反り返る際に、多くの彩色が数分で失われました。現在は新しい出土品を湿ったまま保ち、漆を定着させています。

すべての顔が違いますか?

像には違いがありますが、頭部は少数の型(一説では8種類)で作り、口ひげ、眉、髪を手で仕上げました。実在の人物の肖像が含まれるかは議論があります。兵士像30体の耳の研究では、完全に同じものはありませんでした。

兵士像の高さはどのくらいですか?

立つ像の多くは約1.8から2 mです。博物館所蔵の御者は192 cm、中級軍吏2体は189 cmと191 cm、跪射俑は128 cmです。

武器は本物でしたか?

はい。木の柄に青銅の実用武器を付け、弩には木や竹を使っていました。木は朽ちましたが、青銅は残り、約4万点の鏃や数百点の弩の引き金が出土しています。

秦はクロムめっきを発明しましたか?

いいえ。武器の部品464点の8 %にクロムがありましたが、刃にはありませんでした。近くの木材の漆に由来します。青銅がよく残った主な理由は、きめ細かい弱アルカリ性の土です。

なぜ像は砕けていますか?

1号坑と2号坑は焼けました。屋根の木材が焼け落ちると、屋根とその上の土が像に崩れ、砕きました。3号坑は焼けませんでした。

誰が坑を焼きましたか?

記録はありません。通常は秦の滅亡と反乱軍の将軍、項羽に結び付けられますが、文献で確認された事実ではなく推測です。

兵士はどちらを向いていますか?

墓と反対の東です。UNESCO は、亡き皇帝を守る軍団は外側を向いていると説明しています。

始皇帝の墓は開かれましたか?

いいえ。墳丘の下の中央の墓は未発掘です。上空の水銀を調べた2020年の研究も、墓は開かれたことも盗掘されたこともないと考えられる、と記しています。

墓の中に本当に水銀がありますか?

墳丘の土壌や上空の大気には、周辺より多くの水銀があります。司馬遷が記した水銀の川と整合しますが、内部を見た人はいないため、量や配置は不明です。

像は何度で焼きましたか?

推定は分かれます。古い本では900から1,050 °Cです。2017年の薄片研究は、大半の像を約850 °C以上で保持しておらず、一部は750 °C未満を示唆するとしました。坑の火災で再焼成された像があれば、推定の幅を説明できるかもしれません。

3号坑とは何ですか?

最小のU字形の坑で、戦車1台と68人の兵士がありました。軍団の指揮所と見る研究者もいます。唯一火災に遭わなかった坑でもあります。

青銅の馬車とは何ですか?

1980年に墳丘の西で見つかった、彩色された実物の半分の大きさの馬車2台です。2号車は部品数3,462点、重さ1,241 kgで、2台合わせて14 kgの金銀が使われています。

中国以外で兵馬俑を見られますか?

像は海外の展覧会にも貸し出されています。大英博物館は2007年9月から2008年4月まで、閲覧室で出土した像を展示しました。

用語

  • 陪葬坑:副葬品のために墓の近くへ掘った坑。陵墓には約200あります。
  • 版築:板の間で土を薄い層ごとに突き固める工法。坑の壁に使っています。
  • 前衛:軍団の先頭の隊列。1号坑では68人ずつ3列です。
  • 弩の引き金:3つの部品を2本の軸で留めた、青銅の機構です。
  • 石突:柄の末端に付ける金属の金具です。
  • 鈹:短剣に似た刃を持つ、長柄の刺突武器です。
  • 戟:1本の柄に戈の刃と槍先を組み合わせた武器です。
  • 殳:青銅の先端金具を付けた棒状の武器で、3号坑から出土しました。
  • 漆:ウルシの樹液が固まったもの。彩色の下地に使います。
  • 薄片:顕微鏡で観察できる薄さまで削った試料です。
  • ライダー:レーザーレーダー。ここでは大気中の水銀測定に使いました。
  • 鼎:脚のある青銅の大釜です。
  • 模型の設定値:公表値が見つからない部分について、模型用に決めた数値です。

参考資料

解説とシミュレーションは CC BY-NC-SA 4.0(特記のあるものを除く)。

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