図 95探検館

ポンペイ最後の日:噴火と軽石、翌朝の火砕サージを追う

ヴェスヴィオ山の最初の噴煙柱から翌朝のサージ、現在の遺跡まで、時計を動かしながらポンペイの模型を歩きます。

ポンペイ最後の日:噴火と軽石、翌朝の火砕サージを追う
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1 / 18 立ち上がる噴煙柱午後 1 時半頃のフォルムに立っています。ユピテル神殿の後ろのヴェスヴィオ山から灰と軽石の柱が伸び、広場の人々は足を止めて見ています。舞台の下の時計は初日の朝から翌朝へ、最後に現在へ進みます。

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ポンペイ最後の日を歩く

ポンペイ最後の日、噴火で町を埋めたのは溶岩ではなく、空から降った軽石と、その後に流れ込んだ火砕サージの灰でした。この展示では、その日の午後から翌朝まで町の中に立ち、時計を進めて現在の遺跡まで見ることができます。ポンペイの写真によく写るのは、灰色の石畳、両側の崩れた壁、突き当たりの暗い山です。それは残された姿であって、山から雲が立ち上がって空が暗くなった午後や、戸の取っ手まで積もった石の上を人々が歩いて逃げた夜ではありません。

模型は発掘図に沿って配置した、歩ける町の一部です。南西にユピテル神殿のあるフォルム、その北の Via della Fortuna にファウヌスの家、主要な 2 本の通りの交差点にパン屋とスタビア浴場があります。Via dell'Abbondanza は酒場や壁の告知を沿道に並べて東へ延び、南東の隅には円形闘技場があります。マリーナ門の外からは海岸へ道が下ります。ヴェスヴィオ山は実際のフォルムと同じく北北西、約 10 km 先にそびえます。

主な操作は舞台の下の時計です。初日の朝 8 時から翌朝 8 時半まで進み、最後の目盛りで現在になります。時計を動かすと山から噴煙柱が伸び、空が北から暗くなり、軽石が降って通りに積もり、屋根が次々に落ちます。明け方には熱い灰の雲が北から流れ込みます。最後の目盛りではそれらが消え、屋根がなく、不ぞろいな高さで壁が途切れ、フォルムに見学者がいる発掘遺跡になります。

ポンペイ考古学公園の 121 か所の案内もあります。そのうち 26 か所を模型に再現し、26 枚の隠しカードと、時計や町を見て答える 12 問の課題を用意しています。

最初の 10 秒

ページは噴煙柱が現れて数分後の午後 1 時半に開きます。フォルムで北を向いて立っています。広場の奥の高い基壇にユピテル神殿があり、すぐ後ろのヴェスヴィオ山から灰色の噴煙柱が伸び、上部で広がっています。広場の人々は足を止め、見上げたり指さしたりしています。淡い色の軽石が少しずつ降り始め、北の空はすでに背後より暗くなっています。

最初に何かを押す必要はありません。そのままでも噴煙は湧き続け、ときどき雲の中で稲妻が光ります。時計を少し右へ動かすと頭上まで暗くなり、降る石が増えます。音を有効にすると、山のとどろき、石の落ちる音、雲の中の雷鳴が聞こえます。

ポンペイの位置

ポンペイはナポリ湾に面するカンパニア平野の町で、サルノ川の河口近くの古い溶岩の張り出しにありました。ヴェスヴィオ山は約 10 km 北北西、山の反対側の海岸にはヘルクラネウム、湾沿いをさらに南へ進むとスタビアエがありました。公園の説明によると、町で最も古い聖域の一つである三角フォルムは、サルノ川の谷と河口を見下ろす溶岩の尾根にあります。

町は城壁に囲まれていました。全長 3,200 m を超え、上に通路を設けた二重の壁は、すでに紀元前 6 世紀に存在しました。12 の塔は、攻め込みやすい平坦な北側に多く配置されていました。町の外へは 7 つの門が通じていました。西のマリーナ門はとくに大きく、ヴォールト天井の通路に、馬や荷役動物用の高いアーチと、歩行者用の低いアーチがあります。噴火の頃には城壁の軍事的役割は失われ、一部には海を望むテラス付きの家が建てられていました。

考古学者は町を I から IX までの 9 つのレギオに分け、各レギオを街区(インスラ)と入口番号で区切っています。公園によると、古い町の約 3 分の 2 が発掘されています。この展示の案内もレギオ別です。フォルムの北のレギオ VI に大邸宅、Via dell'Abbondanza 沿いのレギオ I と IX に店や酒場、レギオ II に円形闘技場が集まっていることが分かります。

町の朝

時計を朝 8 時に戻して歩くと、フォルムが公共生活の中心であることが分かります。公園はここを行政と司法、商業と市場、主要な信仰施設が集まる場所と説明しています。長辺には列柱廊、床にはトラバーチンの石が敷かれ、北端のユピテル神殿の軸線上にはヴェスヴィオ山がそびえます。西側はアポロ神域で、その壁のくぼみにはメンサ・ポンデラリアがあります。穀物、ワイン、油の量を検査するため、一定の大きさのくぼみを彫った石の台です。南西の角には商取引と裁判に使われたバシリカ、東側には市場建物のマケルム、女祭司エウマキアが資金を出した建物、票を数えたコミティウムがあります。

Via dell'Abbondanza では商売が盛んでした。酒場では石造りのカウンターにはめた大きな壺から温かい食べ物や飲み物を出していました。公園は発掘区域にこうしたテルモポリウムが 89 軒あるとしています。パン屋も 30 軒以上ありました。水はセリノ水道から町で最も高い海抜 42 m の分配塔へ届き、そこから管を通って約 40 か所の街頭噴水へ送られました。

壁には文字があふれていました。選挙の告知は通行人に地方公職の候補者への投票を求めていました。Via dell'Abbondanza に面するコミティウムの入口の柱もそれらに覆われていました。公園はトレビウス・ウァレンスの家の正面を、選挙や円形闘技場の催しの告知が残る、古代世界でもとくに見事な壁面広告の例としています。公共建築にも刻み書きがありました。大パラエストラの壁や柱には、訪問者が残した性愛や詩に関する文句が数多くあると公園は記しています。

時計の動かし方

舞台の下の時計には 3 つの部分があります。スライダーは初日の午前 8 時から翌日の午前 8:30 まで進み、最後の目盛りが現在です。再生ボタンは「操作」で設定した速度で時計を自動的に進めます。初期設定では 1 秒で噴火の 20 分が進み、第 4 サージ付近では遅くなります。スライダーの小さな印は「時計で見る一日」の出来事に対応し、それぞれに時刻を設定するボタンと出典があります。

左上の表示板は日と時刻、噴煙柱の成長、白い軽石、灰色の軽石、サージといった状況、噴煙柱の高さ、路面からの軽石の厚さを示します。日付が不確かであることも表示します。後で説明する理由から、暦の日付ではなく初日と翌日を使っています。

時計で変わるものは次のとおりです。

  • 噴煙柱:高さと頂部の広がり、深夜以降に崩れる下部。
  • 空:北から広がる火山灰の雲、光、見通し、夜の暗さ。
  • 軽石:周囲に降る石と、通りに積もって足場になる層の厚さ。
  • 屋根:屋根ごとに設定した限界まで軽石が積もると崩落。
  • 人々:立ち止まる人、見上げる人、門へ向かう人。
  • 第 4 サージ:翌朝早く北から町を横切る火山灰の雲。
  • 現在:発掘された遺跡と現在の山の形。

噴火の始まり

目撃者の記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた 2 通の手紙だけです。彼は 17 歳で、湾の北西端、山から約 30 km のミセヌムにいた叔父の大プリニウスのもとに滞在していました。最初の手紙(書簡 6.16)では、午後の早い時間、母親が異様な大きさと形の雲を叔父に知らせたと記しています。その距離からは、どの山から出ているか分かりませんでした。雲は松の木に似ており、長い幹のように立ち上がって上部で枝のように広がり、白い部分と、土や灰で黒くまだらになった部分があったといいます。

火山学者はこの記述を噴火の堆積層と照合してきました。Haraldur Sigurdsson らは 1985 年にその順序を記述しました。その日の早い時間に、小規模な爆発が火山と東側の土地へ灰を降らせたと考えられています。主噴火は正午を少し過ぎて始まり、火口からガスと破片の柱が噴き上がり、何時間も上昇し続けました。高い噴煙柱が持続し、成層圏に広がる雲へ物質を供給するこの噴火は、手紙にちなみプリニー式と呼ばれます。

展示では午後 1 時に噴煙柱が現れ、15 分後には高さ約 14 km になります。正確な開始時刻は不明なので、時計では前後 30 分の幅を示しています。

噴煙柱はどこまで高くなったか

Steven Carey と Haraldur Sigurdsson は、堆積物の各層について、火口から異なる距離で見つかった最大の軽石や岩片の大きさから噴煙柱の高さを求めました。柱が高いほど、大きな石を遠くまで運べるためです。1987 年の復元では、開始時が約 14 km、白い軽石が降る間は約 26 から 27 km、夕方に灰色の軽石へ変わった直後が最大約 32 km です。プリニー式噴煙柱は計約 19 時間続きました。Claudio Scarpati らが 2024 年に発表した再調査では、堆積層を 12 の単位に分け、約 17 時間の間に高さが 14 から 34 km の範囲で変動したとしています。

模型は 1987 年の曲線に従い、最大を 32 km としています。「操作」の噴煙柱の物差しを有効にすると、柱の横に 5 km ごとの目盛りが出ます。山は町から 10 km 離れているので、32 km の柱の頂部はフォルムから水平線に対して約 73 度に見えます。頂部を見るには大きく見上げる必要があり、広がった雲は頭上を覆います。

この角度を保ちながら場面を小さく収めるため、模型では山を 1.7 km 先に置き、山も柱も同じ 0.17 倍に縮めています。空に見える角度は実際と同じですが、山まで歩く距離は実際とは異なります。「自分」の表示板では柱と身長を比較します。高さ 32 km は、身長 1.7 m の人の約 19,000 倍です。

町に降った軽石

その日の上空の風は南東へ、ちょうどポンペイの上へ吹いていました。降ったのは軽石です。ガスの気泡を多く含むため軽い火山岩に、少量のより密度の高い古い岩の破片が混じっていました。最初の約 7 時間は白い軽石でしたが、夕方にマグマの組成が変わり、噴煙柱が高くなる一方、軽石は灰色で密度の高いものになりました。

Sigurdsson らによると、ポンペイの層は毎時約 12 から 15 cm 厚くなりました。午前 1 時頃には約 1.5 m、翌朝に第 4 サージが来た頃には約 2.4 m でした。軽石の総堆積厚は約 2.8 m です。公園の石膏像の解説は約 3 メートルとし、ノチェーラ門近くの逃亡者の庭園では、そこで見つかった人々が死亡した時点で 3.5 m に達していました。

模型もこの数値を使っています。午後 2 時の 15 分前頃から軽石が降り、平均毎時 13 cm で積もり、2.8 m で止まります。厚さは表示板と、Via dell'Abbondanza と Via Stabiana の角にある 50 cm 刻みの柱で確認できます。柱の横には自分の身長の人形が立ちます。時計を動かすと軽石とともに足場が上がり、明け方には店のカウンターほどの高さを歩き、戸口は半分埋まります。

落下する石そのものによって町で亡くなった人は少なかったと考えられています。軽石は積もり続け、大量になると重くなります。それが次の事態を引き起こしました。

暗闇、炎、稲妻

広がる雲の下で、町は午後のうちに暗くなりました。Sigurdsson らは、頭上の噴煙によってポンペイが日没の何時間も前から暗闇にあったと指摘しています。プリニウスによると、スタビアエでは翌朝も普通の夜より濃く暗く、人々はたいまつや灯火をともしました。夜のヴェスヴィオ山では大きな火の広がりや立ち上る炎も見えました。ミセヌムからの第 2 の手紙には、黒い雲の中に稲妻に似た、より大きな閃光が見えたとあります。

展示では北から暗闇が広がります。午後が進むと灰の雲の縁が山から天頂を越えて南へ動きます。見通しが悪くなり、太陽が消え、周囲の通りは暖色の灯りで照らされます。日没後は山の斜面に火が赤く見え、ときどき噴煙柱で稲妻が光ります。画面が暗すぎる場合は、「操作」の「明るく表示」で光量を上げられます。これは見やすくする補助であり、復元内容ではありません。

屋根の崩落

ポンペイの家は木組みの上に瓦を載せていました。Sigurdsson らは降下開始から 2、3 時間後に軽石の重さで屋根が落ち始め、多くの人が家や町から出るきっかけになったと推定しています。Giuseppe Luongo らは 2003 年、軽石の荷重と、その後のサージによって建物がどのように壊れたかを調べました。

模型では屋根ごとに無作為な限界値を設定しています。時計が進むと、午後遅くに数枚、夕方までに約 3 分の 1、朝までに大半が次々と落ちます。「屋根の上」(モード 3)から見ると、赤い瓦のつぎはぎだった町が、灰色の石で埋まった中庭へ変わります。各時刻に落ちた屋根の数は不明です。模型の曲線は、最初の崩落が「2 から 3 時間」後という推定に合わせています。

軽石の降下中にも死者が出ました。ポンペイで見つかった人のうち 394 人が軽石層から発見され、10 人に 9 人は建物内で、屋根や床の崩落に遭っていました。展示はこれらの死を描いていません。家を見せ、起きたことはカードの言葉で伝えます。

逃げた人と残った人

多くの人は逃げました。模型では最初に足を止めて見上げ、午後の半ばから頭にクッションを載せて門へ向かう人形で示しています。クッションの根拠はプリニウスの手紙です。スタビアエで人々が落石を防ぐため頭に枕を載せ、布で結んだとあります。

一方、戸口に軽石が積もるなか屋内に避難し続けた人や、遅く逃げた人もいました。Scarpati らは、最初の 2 回の弱いサージの後、44 分続いた噴煙柱の活動が、明け方に逃げようとした多くのポンペイ市民にとって好条件になった可能性を述べています。逃亡者の庭園で見つかった十三人は、3.5 m の軽石の上を歩いてノチェーラ門へ向かおうとしていました。

ポンペイの人口も、脱出できた人数も正確には分かりません。公園によると、発掘で 1000 人を超す犠牲者の遺骨が見つかっていますが、町の約 3 分の 1 は未発掘です。模型では夜の間に通りの人が減り、サージが来る時には人を表示しません。これは、歩いたり遊んだりする模型に死者を置かないための表現上の選択であって、実際に通りが無人だったという主張ではありません。

サージと火砕流

約 12 時間後、噴火の様子が変わりました。噴煙柱が運んでいた物質を支えきれなくなり、一部が崩れました。それは火砕密度流として斜面を駆け下りました。灰とガスからなる熱い雲が、速い速度で地面に沿って進む現象です。Sigurdsson らは 6 回のサージと流れを数え、S1 から S6 としました。

最初のサージは深夜過ぎに西の斜面を下り、それまでわずかな灰しか降っていなかったヘルクラネウムへ達しました。次いで第 2 サージが来ました。第 3 サージはポンペイの北西の城壁に届きましたが、中には入りませんでした。第 4 サージは午前 7 時頃(復元では 6:30 から 7:30)に町を通過しました。第 5、第 6 は最も大きく、さらに遠いスタビアエへ達しました。そこで大プリニウスが亡くなり、影響はミセヌムにも及びました。

Giuseppe Mastrolorenzo らは 2010 年に第 4 サージを詳しく調べました。ポンペイでは厚さ約 3 cm の灰層しか残さない希薄な雲でしたが、町の死者の大半を出し、その堆積物から 650 人が見つかりました。通過時間は 30 秒から 2 分半、温度は 250 から 600 °C と推定されています。火口に近いヘルクラネウムでは、犠牲者の骨から約 500 °C が示されています。

展示では第 4 サージを、渦巻く灰の塊の壁として描きます。時計が午前 7 時頃までの 30 分を進む間に、北から町を横切ります。近づく様子を見るため時計上では遅く表示しますが、本物の雲なら模型の町を数秒で横切るはずです。通過後の空気は茶色く濃くなり、空の光はまったく見えなくなります。

死因についての 2 つの見方

同じ証拠でも、研究者の 2 グループは異なる解釈をしています。Luongo らは 2003 年、サージの犠牲者は灰を含む空気による窒息、または外傷で死亡したと結論しました。Mastrolorenzo らは 2010 年、主因は熱で、少なくとも 250 °C あれば屋内でも数秒で死亡すると論じました。根拠は保存のよい 93 体の石膏像の姿勢、骨の色や亀裂、銀器の鉛錫はんだの溶融です。像の多くが動作の途中に見えることを死亡時の急激な硬直と解釈し、はんだの融点を約 250 °C としています。また、雲の通過は窒息するには短すぎたと述べています。

公園の逃亡者の庭園のページは両方を挙げ、そこで見つかった十三人の逃走を終わらせた流れが「窒息と高温によって」致命的だったとしています。展示のカードも両説を紹介し、一方には決めていません。

8 月 24 日か、秋か

噴火の日付は不確かなため、この展示の時計には日付を表示していません。

日を記した古代の著者は小プリニウスだけです。最古の写本には「nonum kal. Septembres」、9 月のカレンダエの 9 日前、つまり西暦 79 年 8 月 24 日とあります。一部の写本は月の箇所が欠け、別の写本では n と v の区別が難しいため、「non」を 11 月の「nov」と読めます。後世の学者はそうした読みに基づいて 11 月 1 日、11 月 23 日を提案し、1929 年には現在多くのサイトが採用する 10 月 24 日が提案されました。Pedar Foss は 2022 年、写本を詳しく調べ、8 月 24 日以外はすべて近代の考案であり、10 月 24 日には「証拠上の根拠が皆無」と示しました。公園の所長らも 2024 年、公園の学術誌でこれを整理しました。

だからといって 8 月 24 日で確定ではありません。プリニウス自身が誤ったか、写本の 2 系統が分かれる以前に誤記が入った可能性もあります。発掘からは昔から、火鉢、クルミ、イチジク、ザクロ、クリなどの乾燥果実、ブドウ搾りの痕跡、一部の犠牲者の厚い衣服など、夏より秋らしいものが出ています。黄金の腕輪の家で見つかった硬貨は、かつて 79 年 9 月以降と読まれましたが、摩耗した銘文の読み方に 2013 年に疑問が出されました。カッシウス・ディオは噴火を秋としますが、ローマの秋は 8 月 8 日頃に始まるため、8 月説とも矛盾しません。

さらに木炭の書き込みが見つかりました。2018 年、レギオ V の庭園の家の発掘で、アトリウムの壁に「XVI K NOV」、11 月のカレンダエの 16 日前、つまり 10 月 17 日とあり、年はありませんでした。木炭は 1 年も残らないほど消えやすく、部屋は改修中に見えるとして、10 月噴火説を支持する発見と発表されました。2023 年 10 月、公園は同じ壁にオークの木炭で似た文字を書き、毎月撮影しました。10 か月後の 2024 年 8 月 24 日にも完全に読めました。したがって、この文字は 78 年 10 月 17 日に書かれた可能性もあり、公園は現在、日付を決められない資料の一つとしています。

展示にはこの話のカードが 2 枚あります。一つは模型北部の壁の木炭の文字のそば、もう一つは Via Stabiana 北端の小さな石にあり、写本の読み「IX K SEPT」を示します。課題の一つでは最古の写本の日付を尋ねます。

大プリニウスの最後の航海

大プリニウスはミセヌムのローマ艦隊の司令官で、『博物誌』の著者でした。雲を見て調査のため船を出すよう命じました。出発時に、山の麓の別荘から海路でしか逃げられないレクティナの知らせが届き、計画を救助に変えて大型の軍船を出しました。船には灰、次いで軽石と黒い石が降り、岸は瓦礫で塞がれていました。彼はスタビアエへ進んで友人宅で夜を過ごし、翌日、浜で亡くなりました。甥は濃い空気に倒れたと理解していました。遺体は 2 日後に見つかりました。

模型のマリーナ門の下の桟橋では、立ち止まって彼のカードを読めます。ポンペイの港が実際にそこにあったかどうかは別の問題で、後で説明します。

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フォルムとユピテル神殿

フォルムは、西側にアポロ神域、東側に店が並ぶ土の広場として始まりました。紀元前 3 世紀から 2 世紀の間に整備されて柱廊に囲まれ、北端にはヴェスヴィオ山と軸を合わせてユピテル神殿が置かれました。紀元前 80 年に町がローマの植民市になると、神殿はローマのカピトリウムに倣い、ユピテル、ユノ、ミネルウァを祀る神殿に改築されました。広場から神像が見えるよう高い基壇に載り、隣には 2 つの顕彰アーチが立っていました。

公園によると、1813 年にここを掘り始めた時点で、古代にすでに探索され装飾が持ち去られたことが明らかでした。模型の朝のフォルムには柱廊、広場に沿う像の台座、柱と破風のある神殿があります。現在の遺跡では壁は崩れていますが柱廊の柱は立ち、神殿の背後には今もヴェスヴィオ山が見えます。

ファウヌスの家

ファウヌスの家は約 3,000 m² の街区全体を占め、最初の間取りは紀元前 2 世紀にさかのぼります。富は通りからも分かりました。戸口前の敷石には「HAVE」(歓迎)、入口は装飾された柱で囲まれ、床は色大理石の象嵌でした。内部には 2 つのアトリウムと 2 つの列柱庭園があります。主アトリウムの水盤には、家の名の由来となった踊るファウヌスの青銅像が立ちます。公園は、像が所有者の一族名 Satrii にかけたものかもしれないとしています。庭園の間の開いた部屋には、アレクサンドロス大王とペルシャ王ダレイオスの戦いを描いた紀元前 2 世紀の大モザイクがありました。像とモザイクの原物はナポリ国立考古学博物館にあり、家には複製があります。

模型では敷石の HAVE から入り、アトリウムのファウヌスを探し、最初の庭園を通ってモザイクの部屋へ進みます。像を見つけるのは課題の一つです。模型のモザイクは原物の複製ではなく、その配色で騎手と槍を並べた概略表現です。

近くの悲劇詩人の家の戸口には、鎖につながれた犬と「CAVE CANEM」(犬に注意)の床モザイクがあります。隠された発見の一つです。

パン屋とパン

ポンペイのパン屋は自分で粉をひきました。ポピディウス・プリスクスのパン屋には溶岩石の大きな臼が 5 基あり、それぞれ下の固定円錐(meta)と、上の砂時計形の石(catillus)から成ります。上から穀物を入れ、奴隷や動物が上石を回すと、下から粉が出ました。建物中央の大きな窯でパンを焼いて店で売り、売り台のない店では卸売りや行商を使いました。パン窯の家は西暦 62 年の地震後、溶岩石の臼 4 基を持つパン屋になりました。純潔な恋人たちの街区では、パン屋の隣の厩から、臼を回したラバの骨が見つかっています。

パン自体も炭化して残っています。ヘルクラネウムの公園は、分けやすい放射状の切れ目を入れた丸いパンを紹介しています。刻印のあるものもあります。模型の窯の縁にもこうしたパンが並び、課題の一つでは臼の数を数えます。

スタビア浴場

Via dell'Abbondanza と Via Stabiana の交差点にあるスタビア浴場は紀元前 2 世紀にさかのぼり、ローマ世界でも最古級の浴場です。Via dell'Abbondanza から入ると運動用の大きな中庭があり、左にプール、右に柱廊があります。男湯は脱衣室(apodyterium)、冷浴室(frigidarium)、微温室(tepidarium)、熱浴室(caldarium)と暖かさの順に並びます。炉の熱気が壁の管と二重床の下を通りました。女湯は小さく簡素で、脇道に「MULIER」と記した別の入口がありました。

模型では熱浴室の床の一部を開け、床を支えて熱気を通した小さな煉瓦柱を見せています。隣には円形の冷浴槽があります。現在の遺跡では屋根がなく、漆喰も大半が失われています。

Via dell'Abbondanza

模型の大通りにはいくつかの発見があります。歩道と同じ高さの飛び石が通りを横切り、その上を渡る課題があります。アセッリナの酒場には、大理石の天板に 4 個の壺をはめたカウンターと、青銅の湯沸かしを備えた小さな炉があります。正面には Asellina と、一緒に働いた Aegle、Maria、Zmyrina の名が書かれ、奥からはワインのアンフォラ 22 個が見つかりました。2018 年から 2020 年にレギオ V で発掘された別の酒場には、海馬に乗る海の精、アヒル、雄鶏、つながれた犬を描いたカウンターがあります。

ステファヌスの洗濯工房では服を洗い、布の脂を落としました。ほとんどが奴隷だった労働者が、人や動物の尿を水に混ぜた槽の中で何時間も布を踏みました。尿は道端の壺で集めていました。アトリウムの屋根は洗濯物を干すテラスになりました。Via Stabiana のシリクスの家の入口では、床の「SALVE LUCRU」(ようこそ、お金よ)が訪問者を迎えます。

円形闘技場

町の南東の円形闘技場は、紀元前 70 年に政務官 Gaius Quinctius Valgus と Marcus Porcius が建てました。両者は屋根付きの小劇場も建てています。ポンペイと近隣の町から最大 20,000 人を収容でき、現存が知られるローマ円形闘技場で最古なので、ローマのコロッセウムより古い建物です。上段席へは外側の二重階段、下段席へは下りの通路を使いました。剣闘士を描いた低い壁が闘技場と客席を区切っていました。

西暦 59 年、競技の最中にポンペイと隣のヌケリアの人々が乱闘しました。ローマ元老院は 10 年間の閉鎖を命じましたが、公園によると 62 年の地震後に解除されました。乱闘後、剣闘士の団体も解散させられました。

模型では両端のトンネルを下って闘技場の床へ入るか、西側の階段を上って客席の頂部へ行けます。北端の低い壁に描かれた絵も隠された発見の一つです。

修理中の町

西暦 79 年のポンペイには工事があふれていました。西暦 62 年(一部の古代資料では 63 年)の地震で町の広い範囲が壊れ、銀行家カエキリウス・ユクンドゥスの家の祠の浮彫には揺れる公共建築が描かれています。給水塔も損傷し、79 年には使われていなかったようです。町で最大の中央浴場は噴火時も工事中で、浴槽に大理石はなく、石工が置いたままの柱頭や柱が室内に残ります。赤い壁の家では一部の部屋が下塗りのままでした。純潔な恋人たちの街区では、数日前の地震のためか、ある部屋の装飾が下絵の段階で止まっていました。

模型の中央浴場は Via dell'Abbondanza の南に未完成の姿で立ち、地面に柱の円筒材、壁際に足場の棒があります。

石膏像

発掘では 1000 人を超える人々の遺骨が見つかっています。軽石で亡くなった人は骨として見つかりました。サージで亡くなった人は細かな灰に覆われ、灰が固まった後に遺体が腐敗して空洞を残しました。Giuseppe Fiorelli は 1863 年からその空洞に石膏を流し込み、それ以来 100 体を少し超える像が作られました。公園内に展示され、発見場所に置かれたものもあります。

展示は石膏像も、それに似せたものも見せません。模型の人は生きていた町を表す顔のない人形です。像についてのカードは町の南端の無地の石板にあり、文字だけで説明します。

2024 年、Elena Pilli、David Caramelli、David Reich、Alissa Mittnik らの研究は、5 体の石膏像の中の骨片から DNA を読み取りました。長く語られてきた話の一部は誤りでした。金の腕輪を着けて子どもを抱く成人は、何十年も母子と説明されていましたが、実は子どもと血縁のない男性でした。調査した人々の祖先は、主に東地中海から比較的近い時代に移住した人々だったことも分かりました。著者らは像が長年にわたって移動、修復されてきたことを指摘し、装身具や距離の近さだけで性別や家族関係を決めないよう警告しています。

港と海

ポンペイの港の位置には議論があります。公園はウェヌス神域を「港があったとされる湾」を見下ろすテラス、ドーリア式神殿をその湾の上の張り出しにあると説明しています。町から約 600 m のモレジネの建物群はサルノ川の河港のそばにありました。79 年以来、海岸線も変わりました。公園はディオメデス荘が古代の海岸線に面していたとしています。模型の桟橋、船、積んだアンフォラは想定に基づく復元で、位置の確定した港の図ではありません。

マリーナ門の外、門の下の城壁に接して建つ郊外浴場は私営でした。黄金の腕輪の家や皇帝荘など、西端の住宅は海へ向かう斜面に段状のテラスを設けていました。

79 年より前のヴェスヴィオ山

現在のヴェスヴィオ山は、切れたモンテ・ソンマの環の中に円錐形の山があります。79 年以前の形は不明です。百年祭の家の壁画では、ブドウに覆われたバッカスの隣に、ブドウ畑に覆われた急な単独の山があり、噴火前のヴェスヴィオ山と解釈されることがよくあります。Sigurdsson らはこれと、2 つの頂を描くヘルクラネウムの絵を挙げています。そもそもヴェスヴィオ山の絵ではないと考える学者もいます。

模型では 79 年は一つの円錐、現在はソンマの環と内側の円錐です。79 年の形は壁画に基づく推定です。

溶岩は来なかった

通りを溶岩の川が流れる災害像はよく見られますが、溶岩はポンペイへ達しませんでした。空から降る軽石と、その後のサージの灰が町を埋めました。模型北端の未発掘の土手には堆積断面があります。下から白い軽石、灰色の軽石、第 4 サージの薄い灰、その後のサージの厚い灰、さらに後の堆積物と土です。軽石と第 4 サージの薄層の厚さは引用した研究に従いますが、その上の層の厚さは模型独自の表現です。

1748 年から現在まで

ポンペイの発掘は 1748 年に始まり、彫像や絵画を重視しながら断続的に続きました。19 世紀に Giuseppe Fiorelli が体系的な発掘と詳細な記録を始めました。1764 年にほぼ完全な形で見つかったイシス神殿は、ポンペイを有名にしました。1943 年の爆撃では遺跡の一部が壊れ、トレビウス・ウァレンスの家の正面や多くの石膏像などが失われました。2018 年以降、レギオ V の新たな発掘で住宅、絵付きカウンターの酒場、前述の木炭の文字が現れました。

時計の最後は現在の町です。屋根がなく、壁は不ぞろいな高さで途切れ、地面近く以外では漆喰の大半がなくなっています。フォルムの柱は立ち、広場には見学者がいます。壁上端の崩れ方は模型で作ったパターンであり、実際の壁の測量結果ではありません。

模型と現実の違い

  • 距離。 実際の町は幅約 1.2 km ですが、模型の城壁内は約 530 m に圧縮しています。場所の並びは実際の図に従いますが、道は短く少なく、名所の間の街区も減らしています。
  • 普通の家。 公園の説明から作った 26 か所以外の家は生成したものです。漆喰の正面、大通り沿いの店の開口部、中央の中庭、その周りの部屋、内側へ傾く屋根を備えます。典型的な姿であり、実在する家そのものではありません。
  • 火山。 ヴェスヴィオ山と噴煙柱は 1.7 km 先に置き、0.17 倍に縮めています。場面を小さく保ちつつ、見る角度を正しくしています。
  • 時計。 高さ、厚さ、時刻は数十分、数十センチの不確かさを持つ復元に基づきます。出来事には幅を示し、模型ではその中の一つの値を使います。
  • 屋根。 個々の崩落時刻は推定です。
  • 人。 簡単なトゥニカを着た、顔のない滑らかな人形です。数や出発時刻は説明のための表現で、実数ではありません。
  • 絵画とモザイク。 CAVE CANEM、HAVE、SALVE LUCRU、選挙の告知は原物に基づきます。アレクサンドロスのモザイクと山の絵は概略だけです。
  • 港。 桟橋と船は想定に基づく復元です。

移動方法

WASD または矢印キーで歩き、Shift を押しながら走り、ドラッグで見回します。地面をクリックするとその場所へ歩きます。携帯電話では左親指で歩き、右親指で見回します。右下の 3 モードは歩行、走行、視点を 30 m に上げる「屋根の上」です。左上の地図は模型の町を示し、クリックで移動、隅のボタンで拡大できます。「自分」で身長を入力すると、軽石の柱の隣のオレンジ色の人形が同じ身長になり、何時に軽石がそこまで積もるかを表示します。「写真」は名前を隠し、構図を決めて画像を保存できます。

キーボードでは 1、2、3 でモードを切り替え、G で場所案内、T で課題、F で隠された発見、M で大地図、P で写真モードを開きます。コンマとピリオドのキーで時計を 15 分ずつ戻したり進めたりします。

案内ツアー、課題、発見

案内ツアーは 18 段階です。フォルムと神殿の階段からの噴煙柱、物差し、柱での軽石、屋根の上からの眺め、パン屋、朝のファウヌスの家とアレクサンドロスのモザイク、浴場、通り、円形闘技場、午前 1 時の町、海岸、第 4 サージ、断面、木炭の文字、現在のフォルム、表示板を巡ります。

場所案内はポンペイ考古学公園のページから 121 か所を掲載し、レギオと種類で絞り込み、最初の発掘年を見られます。隠された発見は町に置いた 26 枚のカードで、近づいて見ると開きます。8 枚には「実際には」とあり、日付、給水塔、修理中の町、最古の円形闘技場、石膏像の DNA、山の形、溶岩が来なかったこと、木炭の文字について、よくある話を見直します。課題は 12 問で、解いた問題はブラウザーに保存されます。

よくある質問

ヴェスヴィオ山が噴火してポンペイが壊滅したのはいつですか?

西暦 79 年です。小プリニウスの手紙の最古の写本は 8 月 24 日とします。秋らしい出土品が多く、一部の学者は秋の噴火を主張していますが、ネットでよく繰り返される 10 月 24 日には写本の根拠がありません。

噴火は何時間続きましたか?

Carey と Sigurdsson(1987)、Scarpati ら(2024)によると、持続する噴煙柱は初日の正午過ぎから翌朝早くまで約 17 から 19 時間続きました。終盤の数時間にサージと火砕流が起きました。

噴煙柱の高さはどのくらいですか?

Carey と Sigurdsson の復元では最大約 32 km です。2024 年の研究では 14 から 34 km の間で変動したとしています。

ポンペイの軽石は何メートル積もりましたか?

Sigurdsson らによると合計約 2.8 m です。公園は約 3 メートルとし、ノチェーラ門付近では 3.5 m が測定されました。毎時約 12 から 15 cm 厚くなりました。

溶岩がポンペイを破壊したのですか?

いいえ。ポンペイは降り積もる軽石と火砕サージの灰で埋まりました。溶岩は町に届きませんでした。

ポンペイの人々の死因は何ですか?

軽石の降下中、主に屋内で屋根や床の崩落に遭った人もいて、軽石層から 394 人が見つかりました。大半は翌朝早くの第 4 サージで亡くなり、その堆積物から 650 人が見つかりました。主因が熱か窒息かは議論されています。

何人が亡くなりましたか?

発掘済みの町の約 3 分の 2 から、1000 人を超える人々の遺骨が見つかっています。湾の周囲でも死者が出て、多くの住民は逃げたと考えられますが、信頼できる総数はありません。

なぜ逃げなかったのですか?

多くの人は逃げました。暗闇、落石、屋根の崩落により午後や夜に町を出た人も、明け方に軽石の上を歩いて逃げようとした人もいました。屋内に避難した人もいました。最初のサージは町に届かず、第 4 サージが突然来ました。

石膏像とは何ですか?

サージで亡くなった人々の遺体が、固まった灰の中に残した空洞に、1863 年以降、石膏を流し込んだものです。100 体を少し超える像が作られました。中には骨があり、2024 年の DNA 研究は一部の物語の誤りを示しました。

噴火前のポンペイはどんな町でしたか?

石畳の道、フォルム、神殿、劇場、浴場、円形闘技場、多くの店や酒場、絵画やモザイクで飾られた大邸宅のある城壁都市でした。模型はその一部の朝を見せます。

ポンペイは海辺にありましたか?

海岸とサルノ川河口の近くにありました。港の正確な位置は議論されています。町から約 600 m のモレジネの建物群は河港のそばにありました。

ポンペイはどれだけ発掘されていますか?

町の約 3 分の 2 です。発掘は 1748 年に始まり、2018 年以降もレギオ V の一部など新しい区域が掘られています。

展示に石膏像がないのはなぜですか?

亡くなった人々の遺体に関わるものだからです。町を歩いたり遊んだりする展示の中に死者を置くのは適切ではありません。カードでは言葉で説明し、公園では配慮して展示しています。

ヘルクラネウムも同じ被害に遭いましたか?

火山の西側のヘルクラネウムは、初期には灰がほとんど降りませんでしたが、深夜過ぎに最初のサージが到達しました。犠牲者の骨の研究は約 500 °C を示しています。

アレクサンドロスのモザイクとは何ですか?

ファウヌスの家にある紀元前 2 世紀の床モザイクで、アレクサンドロス大王とペルシャ王ダレイオスの戦いを描いています。原物はナポリ国立考古学博物館、家には複製があります。

テルモポリウムとは何ですか?

石造りのカウンターにはめた壺から温かい食べ物や飲み物を出す酒場や食堂です。公園は発掘区域に 89 軒あるとし、主な利用者は大邸宅の所有者ではなく、比較的質素な暮らしの人々だったと説明しています。

用語

  • プリニー式噴火:高い噴煙柱が持続する爆発的噴火。小プリニウスの手紙にちなむ名称です。
  • 軽石:ガスの気泡を多く含む軽い火山岩。ポンペイでは数ミリから数センチの火山礫として降りました。
  • 火砕密度流:灰、岩、ガスが熱い雲となって高速で地面に沿って流れる現象。希薄なものをサージ、濃密なものをフローと呼びます。
  • レギオ:考古学者がポンペイを分けた 9 地区の一つです。
  • アトリウム:ローマ住宅の主要な広間。中央の水盤(impluvium)の上が空に向かって開いています。
  • ペリスタイル:列柱廊に囲まれた庭園です。
  • テルモポリウム:カウンターの壺から温かい料理や飲み物を出す酒場や食堂です。
  • カレンダエ:ローマ暦の月の初日。日付はそこから逆に数えました。
  • ララリウム:家庭の祠です。

参考資料

解説とシミュレーションは CC BY-NC-SA 4.0(特記のあるものを除く)。

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